宮城県気仙沼市の墓地、供養、婚活の相談は臨済宗妙心寺派淨勝寺へ

住所:宮城県 気仙沼市本吉町津谷桜子74 / TEL:0226-42-2515

淨勝寺について

淨勝寺の歴史

  • 淨勝寺の成り立ちと背景

    淨勝寺の成り立ちと背景

    淨勝寺の創建は建仁元年(約820年前)、尼公が馬籠の地に逃れて尼となり養光尼と号して佐藤継信、忠信の菩堤を弔うため建立したと伝えられ、養光寺と称されました。

    後に五輪塔を安置し、夫、勝信公が愛用した鞍、竜宮城神女の釣り鐘等多くの宝物を寄進し輪奐の美を誇りましたが、年を経て衰退し、元和年代に入り仙台燕沢、善応寺の通玄和尚が中興し安養山 淨勝寺と寺号を改め松島瑞巌寺の末寺となりました。

    亨保8年(約290年前)、伊達吉村公が親しく参拝され五輪塔に手をかけられ佐藤継信、忠信兄弟の忠死を偲ばれたという記録も残っています。
    本尊 釈迦牟仏は阿部彌快慶の作と伝えられる名作で、文化財にも指定されています。

    現在の建物は昭和26年に改築したもので、気仙沼大工の棟梁、中村青雲の設計監督によるものです。鳳凰や龍などの内外の彫刻も、全て同人が制作したものです。
    佐藤継信、忠信兄弟について

安養山記 天嶺性空筆 亨保8年(1728年)

安養山記 天嶺性空筆
  • 安養山記 天嶺性空筆
  • 安養山記 天嶺性空筆
  • 安養山記 天嶺性空筆

淨勝寺の成立事情を民間伝承を混じえた形で書き記した、歴史的にも価値のある書簡です。

仙台藩の五代藩主伊達吉村公は、藩主として四十一年間君臨し藩政のため尽力され、産業の発展、領内の回蹟踏査、学問所の開設をされ藩学の基礎をつくられたと伝えられています。
安養山記のあら筋から、五代藩主吉村公の浄勝去へのお立寄り、龍淵和尚からの聞き取り書がなかったら、本家寺の天嶺和尚が安養山記を書くことができなかったと思われる。
安養山記は、吉村公の御高配によって生まれたといっても過言ではない。

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  • 意訳 安養山の記

    陸奥国本吉郡津谷村の安養山淨勝禅寺は、すなわち伊達郡丸山城主佐藤庄司勝信の奥方某尼公が、亡くなりし息子たち継信・忠信の為に(菩提を弔う)香火道場として建てたものである。

    創建当初は天台宗に属し、海沢山養光寺と称した。その後、江戸時代初期の元和(西暦1615~23の頃、禅寺に改めて、松島(の瑞巌寺)の一派に属した。そして、現在の名称に改めた。
    当時の住職が中国の智門光祚和尚を特に勧請開山とした。しかし、その詳細な理由はわからない。(創建開基の)某尼公は、平泉藤原秀衡の妹である。民間伝承に次のように伝える。

    尼公、その昔、伊達郡の丸山城からここ(本吉郡)に移り住んだ。それは隣村、馬籠村の信夫館であり、今に現存する。尼公がこの館に住んで言う事には「私はよく事情を知らなかったが、この山(館)には昔寺があったそうだ。又、いろいろと霊宝もあり、三尊も存する。本尊は運慶が作りたてまつる仏である」と。

    又、継信の(形見である)鞍は元禄元年の大晦日、時の住持痴兀(但し本山法系表には不出)が出かけていた日に、火災によって曲禄や本尊その他の什宝物共々焼失してしまった。只、二兄弟の古石塔のみが庭先に残っているのみである。
    又、大鐘があったが、ある大嵐にあって見失われた。小泉村の鐘渕という所がこの鐘の沈んだ場所であるという。

    今(当時)の住職は碩(せき)である。碩和尚は燕山門派(通玄派)の徒である。その因縁で(同門という関係から)余(天嶺)は以前(正徳二年六月〈1712年〉 同五年〈1715〉の間) に、山号寺号の額を揮毫した事があった。
    太守伊達吉村公が、領国巡視の途次、この村を通りかかり、わざわざまわり路をしてこの寺に参り、住職(龍淵)に面会して寺の経歴を尋ねられた。

    太守が仙台へ帰城の後、私は七ヶ浜蕉蒲田浜の本源庵でお目にかかった折、この寺の事歴のメモを示された。そして、小柄にその概要を清書するよう命じられたので、清書してさし上げた。

    享保八年癸卯六月二十八日
    再住妙心現大雄山聖徳善應寺天嶺性空居る所の蓮花軒において書す。

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  • 淨勝寺宛書簡 天嶺性空筆

    淨勝寺宛書簡 天嶺性空筆 享保9年(1724年)
    伊達家五代吉村公が、享保8年3月、仙台榴ヶ岡蟠龍庵と、同年6月、菖蒲田浜本源庵(共に現存せず)において、領内巡見の折、自身で記したメモを基に「淨勝寺之記」を、天嶺に清書を命じた。
    その清書が完成、表装も出来上がったので、郡司を勤めている伊東宮内(天領の実兄)に託して淨勝寺へ送付したこと、将来、又、巡国があろうから大事に保存する事、5月開山忌(通玄祥月命日25日)出仙の折、面談することを記す。

  • 巡(国御成之記(じゅんこくおなりのき) 龍淵義大筆

    巡(国御成之記(じゅんこくおなりのき) 龍淵義大筆(當山第2世)享保8年(1723年)
    享保8年(1723年)陰暦2月21日(陽暦3月28日)、五代吉村公が領内巡見の途次、淨勝寺に立ち寄り、龍渕が案内、寺の歴史、什物等を尋ねられたので、実見に供した事、下賜品は真綿2把、献上物は気仙の海苔10束。
    その後、佐藤兄弟の墓所へ参じ、下山された。帰仙後、天嶺に対し、淨勝寺の縁起を制作する様、下名あり、下書きが完成すると、十日ほど場内に止められた事、及び巡国の供衆の指名を記す。

佐藤兄弟について

佐藤兄弟
  • 源義経公の忠臣 佐藤継信・忠信公像

    當山開基養光尼の実子であり、源義経の忠臣。
    當山に安置されている佐藤兄弟の像は江戸期の作とされ、作者は不明ではありますが、細かく精巧な作りから腕利きの仏師が制作したものと見られ、現在では見事な彩色で修復されています。
    乙和姫の戒名は養光寺を建立したことから後に本来の「光明院殿」から寺殿号に追贈されたものと思われます。

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  • 當山伝承

    當山は安養山浄勝寺と号し、源義経の家臣佐藤次信・忠信兄弟の菩提のため、母尼公が建仁元年(1201年)に創建したもので、初めは天台宗に属し海沢山養光寺と称しました。 

      尼公は福島飯坂の丸山城主(大鳥城ともいう)佐藤庄司勝信公(信夫荘司元治ともいう)の夫人にして、乙和姫(ひめ)と云い、平泉の初代藤原清衡の末子亘理十郎清綱の息女でした。
    佐藤継信、忠信兄弟は源義経の忠臣とうたわれ、源平合戦には、常に義経に従い、股肱の臣として忠誠を尽しました。

    兄の継信は文治元年(1185年)屋島の戦に主人義経の身代りとなって、敵将能登守教経の矢にあたって戦死し、弟の忠信もまた、平家滅亡のあと、頼朝、義経不和により、追われる身となり、義経のあとを追って奥州に下ろうとしましたが、文治2年(1186年)京都六条堀川の館において頼朝の家臣糟屋有季に囲まれ、壮烈な最後を 遂げました。

    その後、文治5年(1189年)源頼朝が28万余の大軍を率いて、奥州泰衡征伐の軍をおこしたとき、兄弟の父佐藤庄司勝信は一族をあげて、これを福島郊外の石那坂に要撃し、奮戦しましたが、衆寡敵せず、18将とともに討死し丸山城も又、兵火にかかって灰燼と化しました。

    その時、夫人もそれに殉じようとしましたが、家臣にとどめられ、青田五郎兵衛長吉に助けられて、当町馬龍邑に落ちのびてきたと伝えられています。

    ただし、郷説によれば、津谷、山田、馬籠の三邑は乙和姫が藤原秀衡から化粧料地として与えられていたと伝えられており、また秀衡の四男、本吉冠者高衡が志津川の朝日館に居住したので、その地をたよって落ちのびてきたものと思われます。

    馬籠に落ちついた夫人は郷人の情けにほだされて、この地に居館を構えて信夫館と称し、また飯坂の佐藤家代々の菩提寺である医王寺の本尊、薬師如来を勧請して薬師堂を建立しました。
    今にいたるも馬籠に信夫館の館跡があり、薬師堂があります。のちに夫人は人生の無常を感じて尼となり、養光尼に号し、二子の菩提を弔らうために、建仁元年(1201年)この寺を創建しました。

    養光寺は尼公の僧名をそのまま寺号としたものです。後に五輪の塔を安置し、勝信公の鞍。龍宮城神女の釣鐘等多くの宝物を寄進して輪奐の美を誇りましたが、年を経て衰退し寺境も大いに荒廃しました。

    元和年中(1615~1624年)仙台燕沢善應寺の通玄和尚が中興し安養山淨勝禅寺と山号、寺号を改め、松島瑞厳寺の末寺となりました。しかる に元禄元年(1688年)、火災のため全焼し什宝尽く焼失し、五輪の塔のみ残すことになったと伝えられています。享保8年(1724年)に伊達吉村公が親しく参詣され、五輪の塔に手をかけられ、兄弟の忠死をしのばれたという記録があります。また、兄弟の木像があり、作者不明でありますが、
    寛政元年(1789年)幕府巡見使に随行した吉備(現 岡山県)の古川古松軒翁が、東遊雑記の中に 「此処に安養山淨勝寺という禅院あり、佐藤兄弟の墓并(ならびに)木像を安置す。像は甲冑を着し床机に腰を掛けし体なり。至ってよき作とみえて生くるが如くにして古をおもいだして哀れなり、云々」 と褒め称えています。
    また、隣邑の小泉には尼公の遺命によって建立したという尼公の菩提寺、寳壽山淨福寺があります。

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830年もの時を超えて…妻との再開法要

  • 佐藤継信公・忠信公と、妻 楓・初音

    佐藤継信公・忠信公と、妻 楓・初音

    源義経の忠臣として知られ、壮絶な最後を迎えたことで知られる佐藤継信・忠信兄弟とその妻である楓(かえで)と初音の再開法要が平成26年6月7日に当山本堂で執り行われました。

    佐藤継信・忠信兄弟とその妻 楓(かえで)と初音

    当山で保管している兄弟の木像と、白河市田村神社で保管されている2人の妻のブロンズ像の前で多くの参列者が焼香をし、手を合わせました。
    関係者皆様の努力とご協力無しでは成し得なかったこの法要が、素晴らしい形で迎えられた事に、改めて感謝の意を申し上げます。

木造修復の軌跡(平成24年に再修復)

  • 木造修復の軌跡
  • 木造修復の軌跡
  • 木造修復の軌跡

初回の修復では、修復とは言い難いほどの塗料乱雑に上塗りされています。

木造修復の軌跡

左が継信(次信)、右が忠信。それぞれ胴に名前が書かれております。

  • 下地塗
  • 極彩色仕上げ

下地塗

極彩色仕上げ

  • 昭和の時代に本堂前にて撮影
  • 古川古松軒が褒め称えた本来の姿が思い浮かぶ。

昭和の時代に本堂前にて撮影。先々住宗圓和尚が徴兵された留守中に気仙沼の大工によって塗装された。戦後、帰ってきた和尚が驚き悔やんでいたという話がある。

幕府巡見使に随行した吉備の古川古松軒が褒め称えた本来の姿が思い浮かぶ。

  • 佐藤継信、忠信五輪塔
  • 佐藤兄弟の父、奥州藤原氏に仕えた佐藤基治(藤原忠継)が使用したとされている鞍

佐藤継信、忠信五輪塔

佐藤兄弟の父、奥州藤原氏に仕えた佐藤基治(藤原忠継)が使用したとされている鞍。